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常にふりそそがれでいる弥陀の大悲心

hiromiさんの今日のブログを読み、阿弥陀仏の大慈悲心が常に惜しみなくふりそそいでいることを感じました。

今日の淳心房さんのブログから↓
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どうか今の救いをあきらめないで下さい。
阿弥陀仏は「この私」1人を助けるために24時間365日、果てしない過去から動きづくめです。
寝ている時も、煩悩に煩わされている時も、苦しい時も悲しい時も、私の知らない所でずっとご苦労されています。
そんな真実大悲の御方を前に、またしても迷いを重ねたならばどう申し開きなさるおつもりですか。
「汝一心正念にして直に来れ」の如来の勅命に「はい」と順う一つです。
どうか、他力不思議の世界に生かされて下さい。

皆友 * - * 23:15 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

自力では信ずることが不可能

 今まで何となく心にひっかかっていた表現が、淳心房さんのブログを通して、なるほどと思わされました。
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難信とか、極難信と言われるのは、自力では絶対に信ずることが不可能だからです。
そして、その信心は如来回向の信心であることをあらわします。
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21世紀の浄土真宗を考える会に紹介のあった記事からも、学ばせていただきました。

今日の安心問答の回答に、心あたたまりました。ありがとうございます
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阿弥陀仏の本願は、老少善悪の人を差別されない本願です。弥陀をたのむ真実信心一つの救いです。それはなぜかといえば、罪悪深重、煩悩が燃えさかっているものを助けようとする願であるからです。
自己否定をするではなく、かりにダメな自分だと思っても自己にかけられた阿弥陀仏の大慈悲にどうか目を向けて下さい。自己を否定しても阿弥陀仏の救いとは何の関係もありません。**さんを救おうという阿弥陀仏の大慈悲は現在働いていますから、まったく自分を否定する必要はありません。煩悩熾盛の衆生を、哀れに思われただ今救うのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今救われて下さい。
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皆友 * - * 22:54 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

本願に帰する身とならせていただく道

 私が最近気にかかってたことを最後の学徒(仮)さんが、本日のブログで紹介してくださいました。
「讃嘆・談合に極まる」
どうぞ、皆さまもお読みになってくださいませ。
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(一部抜粋)
お念仏の世界にあっては、同胞相集ってお念仏のお徳を讃嘆し、お聞かせ頂いて、心を開き心を打ち出して語りあうということがもっとも大切なことであると仰せられるのである。
(中略)
仏法讃嘆の御法座において御讃嘆を聞かせて頂くときには、心中を打ち出して、相互いにお聞かせ頂いていることに誤りはないか、よくよく談合せよ。このことが何より大切なことである。
皆友 * - * 20:51 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

阿弥陀仏の本願に向かう私、逃げる私

「安心問答」を読んでおります。ぜひお読みになってください。
2009-04-28 阿弥陀仏の本願に向かう、とは、どのようなことなのでしょうか
本願から逃げている私だからこそ、本願に向かわねば、本願から逃げまわる自分だと言うことはいつまで立っても分からないでしょう。
もちろん、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、ただ今弥陀に救われるということです。
逃げる自分がわかってから、ようやく救われるというような時間的な差はありません。
本願に向かってというのは、ただ今救われるということです。

淳心房さんの今日のブログ「真偽検証」も、わかりやすく励まされたのでご覧になってください。
全く、本願力廻向の信心です。
「ただ南無阿弥陀仏」と聞かせて頂くのです。
そうなると、「こちらから用意するものは何もいらなかったなぁ。今まで計らっていた自分は間違っていたなぁ」と知らされます。
蓮如上人の「あら、心得やすの安心や」も、「そうだなぁそうだなぁ」と知らされます。

皆友 * - * 20:06 * comments(2) * trackbacks(0) * - -

阿弥陀仏の本願に、一対一で真正面から向かう

最後の学徒(仮)さんのブログ「仏法聞くのにいい時代、環境があるとしたら、今だと思います。
大変に恵まれていると思います。」
と書かれていましたが、私もそうだろうと思います。

今までの私は、自分から阿弥陀仏の本願の救いを遠いものにしていました。
六道輪廻を繰り返している私が迷いの打ち止めされて、仏になる身にしてもらえるのだから、この世のほかのこととは桁違いです。
今、救われないと、後はないと自分に言い聞かせ、また思うようにしています。
今、阿弥陀仏の救いにあわないと、またぐるぐる輪廻を繰り返し、孤独で寂しくすっきりしない苦悩の日々を過ごさねばならないのですから。
そう考えると、もう先延ばしにはしておれないと思って当然なことなのだと思います。
煩悩いっぱいで、頭や心に浮かぶことで、高尚なことは何もありません。
「後生に驚きが立つ」「無常観」「罪悪観」なども、あまりありません。

ですが、あきらめずに阿弥陀さまにぶつかっていくことが大切なのだろうと考えています。

淳心房さんのブログから抜粋させていただきます。
今の私自身に言い聞かせ鼓舞するのにぴったりな言葉だと思いました。
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「迷ってんじゃないですか?
自力臭い!簡単ですよ。
過去のことを思っちゃダメだよ。
「何であんなことしたんだろう」って後悔するから。
未来のことも思っちゃダメ。
大丈夫かなぁ。あは〜ん。不安になってくるでしょ。
ならば、一生懸命、南無阿弥陀仏に命をかける!
だからこそ!Never Give Up!!」
(中略)
「頑張れ頑張れできるできる絶対できる頑張れもっとやれるって!
やれる気持ちの問題だ、頑張れ頑張れそこだ!
そこであきらめるな、絶対頑張れ積極的にポジティブに頑張れ頑張れ!
阿弥陀さまだって頑張ってるんだから!」

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今日の記事は、教義や弥陀の救いからいえば、おかしなことばかり書いたと思いますが、私の今のこころでした。

安心問答10月20日の回答を読み直してみました。
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相撲にたとえるなら、同じ土俵に100人が上がって誰が一番先に勝つかという競争ではなく、一人一人が別々の土俵で、勝つか負けるかの勝負をしているのです。
花でいえば、隣の花より早く咲くかどうかよりも、自分の花をさかせるかどうかが問題です。
相撲ならば、となりの土俵より早く終わるかどうかではなく、自分の土俵の勝負がつくかどうかが問題になります。
なぜ早い遅いかの違いがあるかといえば、土俵が違うからです。
早く決着のついた土俵があっても、それは私ではありませんし、現に自分は自分の土俵にあがっているので、考えて原因がわかったとしても、意味のないことです。
また、まだ土俵に上がる前ならば、過去の取り組みを研究することも意味が多少あるかもしれませんが、すでに取り組みが始まって相手と組み合っているときには、目の前の相手にぶつかるしか有りません。
過去の自分の三業をあれこれ考えても、すでに行事の軍配が上がっているのですから、目の前の阿弥陀仏にぶつかるしかないのです。また、相手を見ずに、自分の手足や体調のことを考えていては相撲になりません。
救われない原因を探し始めるのは、目の前の阿弥陀仏に向かっていないからです。
相撲で謂えば、土俵に上がる前のように思っておられるかも知れませんが、すでに行司の軍配は上がり、阿弥陀仏とぶつかりあっているのです。
だから、御一代記聞書の後半に「とにかく仏法を心に入れて聴聞せよ」と書かれているのです。
となりの土俵の様子を気にするのではなく、自分の土俵で相撲をとれと言われているのです。
あなたが聞く相手は、すでに救われた人でもなく、自分自身でもなく、阿弥陀仏です。
皆友 * - * 21:09 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

阿弥陀仏の本願力からいえば、100%救われます

阿弥陀仏の本願に救われた喜びを発信される方々のブログを読んでおりますと、いかに親鸞会が正しく弥陀の御心を説いていなかったのかと日増しに思います。
説き方が不十分、あるいは肝心かなめが抜けていたのだと知らされてきました。
(もちろん、親鸞会の完全な間違いもあります。)

阿弥陀仏の本願が正しく伝われば、どんな人であろうとも100%救われます。尊き阿弥陀仏の本願なのですから。
せっかく親鸞会で阿弥陀さまの本願を聞いていた方でも、親鸞会の教えがおかしかったために、途中で、あきらめられて今は聞かれていない方が相当数、いらっしゃいます。
すごく残念だし、さみしくもったいないことです。どうか、阿弥陀さまに向かっていただければと思います。
また、阿弥陀如来のましますことも知らない人もたくさんいらっしゃいます。
そんな方々とともに阿弥陀如来の浄土に参らせていただきたいという思いで、私もお粗末ながらもブログを書いております。

親鸞会にいたときは、阿弥陀さまを遠い存在だと思い込んでいました。しかし、それは誤りでした。

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宮田さんの「安心問答」からの抜粋をさせていただきます。(赤字強調は、私。)

「阿弥陀仏の本願は、ただ今救う本願であり、どんな人も報土往生させ仏のさとりひらく身にしてみせるとという阿弥陀仏の願いです。
その
阿弥陀仏の本願力からいえば、助からない人は一人もありません。
法から言えば、100%救われます。
地獄には堕ちることは確率的にありえません。」
(中略)
(0)阿弥陀仏は、どんな人でもただ今救う本願を建てられた。この本願で救えない人は一人もない。         (1)どんな人でもただ今救う本願があるのに、万が一にも「死後、ながく地獄に堕ちること」「往生極楽できないこと」があったら、大変であるということを、「後生の一大事」という。
(2)阿弥陀仏の本願に救われると、絶対に自力では仏になれない凡夫が報土往生し、仏に生まれるから「往生極楽の一大事」といわれた。
まず助からない私を中心に御文章を読むか、ただ今必ず救う本願を中心に御文章を読むかでその内容は全然変わってきます。
繰り返しますが「私を救う阿弥陀仏の本願」が出発点です。
自力で往生極楽できないものに対して、「お前は往生出来ないぞ!一大事だぞ!」とどれほど言っても、まったく一大事ではありません。誕生日に1才年が増えたことを一大事といわないのと同じ事です。
絶対救われる本願があるのに、往生出来ないなんてありえない。しかし信心を獲得せずば、そのありえないことが起きるぞ、一大事だぞ!」という意味で「他力の信心を獲得せよ」と蓮如上人はいわれました。

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皆友 * - * 23:57 * comments(2) * trackbacks(0) * - -

弥陀の浄土にともに

昨日は、縁のあった方に阿弥陀さまの本願について、話しました。

その方は、全く仏教を聞いたことのない人なのですが、阿弥陀如来のことを伝えました。

今までは、人に仏教の話をするときは、難度海のたとえや無明の闇といったことから話をはじめて、徐々に阿弥陀仏の話をするといった感じでしたが、今回は、そのものズバリ阿弥陀さまの話をしました。

お互いの信頼関係が築けていることが大切でしょうが、とにかく阿弥陀さまがおられることを知ってほしかったからです。

私と深い縁のあった方に、大慈悲心の阿弥陀さまのことを知っているのに伝えないのでは、人として情けない、阿弥陀さまに申し訳ないとの思いがありました。

真宗宗歌3番にありますように、弥陀の浄土にともに参らせていただきたい思いです。

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最後の学徒(仮)さんのブログ crossroadの親友達(仮)より抜粋させていただきます。

 

さて、すべてに捨てられたかの如き私ですが、阿弥陀如来は、ひたすらに私を一人子として下さいました。
本当に、ありがたいことです。

(中略)

自分以外は、皆、如来方なのではないかとふと思うことがあります。
「大聖おのおの、もろともに、凡愚低下の罪人を、逆悪もらさぬ誓願に方便引入せしめけり。」
と御和讃にありますが、今から2600年前の事を言われているのが本当でしょうが、私の事を言われておられたのかと受け取らずにはおれません。

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どのような人でも等しく救いたまうのが、阿弥陀仏の本願です。

私と過去に家族兄弟友人であった方で、先に弥陀の浄土に参らせていただいてる方が、押し出し引っ張ってくだされているのだと、思うことがあります。

阿弥陀如来やそういった方々の慈悲心に思いを馳せると、私とご縁のあった方にも、どうか共に弥陀の浄土へ参らせていただきましょうという思いになるのです。

皆友 * - * 18:03 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

必ず救うと常に働かれる南無阿弥陀仏

いま、浄土真宗のみ教えにあわせていただいているのは、ありがたいことだと思います。

ここ数年阿弥陀さまに向かおうという心が弱まっていた私でしたが、「安心問答」や「21世紀の浄土真宗を考える会」を縁として、ただ今の阿弥陀さまの救いに向かっていこうという心が、起きてきました。

今、なぜか縁あってこの文章を読まれている方も、阿弥陀さまの本願、どうか聞いていただけたらなぁと思います。

 

阿弥陀さまに救われたと喜んでおられる方が、昨晩メールをくださいました。

「色々なことは、全て、何もかも阿弥陀仏のお導きだと思います。

ただ阿弥陀仏の本願を受け取っていないその事自体が最も重い罪であり、悪です。

疑っていることで六道を廻り続けるのです。

本当は信心決定したくもないし、阿弥陀仏を敬う事も、尊くも思っていない我が身の姿を弥陀の本願で今、信知させて頂いて下さい。」

 

昨日祝日でしたので午後から、「安心問答」の宮田さんに、お会いして阿弥陀如来の誓願について詳しく聞かせていただきました。

夜は、自宅で「安心問答」の今年の3月と10月のころの記事を読んでました。

それで、宮田さんの話は、すばらしかったです…とその方に伝えますと、こう言われました。

 

「知識、同行でなく、直に阿弥陀仏と対峙して下さい。

余計な知識はもう十分です。まだ何を望みますか?

いつ迄弥陀から逃げているつもりですか?逃げ続けられると思っているのですか?

今、夢中で弥陀に飛び込むのです。」

 

厳しいですが、ほんとその通りだと思います。

また、別の方で、この方も阿弥陀さまに救われたと喜んでおられる方なのですが、このことを伝えると次のように言われました。

 

「「まだ何を望みますか?」の通りだと思います

知識はもう本当に十分なのではないでしょうか

 救われるきっかけとなるような言葉や新しい理解を探していられるのでしょう。

 でもそれは、救われるきっかけがまだ整っていないとの思いからくるのでしょうか。

 救われる条件やきっかけは、既に「機法一体の南無阿弥陀仏」に整っています。と

 何度も聞かれている筈です。

 そのまま受け取るしかありません。

 

昼に夜に聴聞されるのは大変尊いことですね。

 しかし、そんな4、5時間聞いたのはアテにできませんよ。これは本当です。

 なにせ阿弥陀仏は五劫の思惟ですから

 5時間と5劫では比較になりません。

 しかも弥陀の思惟は、一刹那も清浄でなかったことがない思惟です。

 一方こちらは不確かな心でもってあーでもないこーでもないとふらふらしながらの思惟でしょう。

  仏様には全然かないませんから。。分かって受け取れる筈がないですから。

 そこのところをよくよくお聞きくださるのが大事だと思います。

 こちらの聞き心が大事なのでなく、弥陀の願の生起本末を聞くのが大事です。」

 

阿弥陀仏を念じ、ただ今救われたいと思います。

皆友 * - * 23:58 * comments(3) * trackbacks(0) * - -

お勧めブログ「安心問答」

私は、十数年前に親鸞会に入会し、ただ今救いたまう阿弥陀仏の本願について聞き始めました。
しかし、阿弥陀如来に救われたいと思いながらも、ずるずる時が過ぎていきました。
正しい教えを説いていると思っていた親鸞会でしたが、残念ながら、阿弥陀さまの御心を正しく教えておりませんでした。
ここ4年、心は、もやもやしておりましたが、今は退会しブログ「安心問答」を縁として、正しい教えを聞かせていただいております。
ブログ「安心問答」を開設している宮田さんは、元親鸞会の方ですが、阿弥陀如来に救われておられ信頼できる方ですので、皆さまも、阿弥陀如来の誓願について、聞かれることをお勧めいたします。
(阿弥陀如来のお力によって私は救われるのですから、「先生、先生」となってはいけませんが。)
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http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091102/1257171501
ブログ「安心問答」からの抜粋

信心数え歌にあるように「助くる弥陀が手をさげて まかせてくれよの仰せ」が、阿弥陀仏の本願です。
ですから、浄土真宗の看板を掲げるところが、人を苦しめたり、人からものを差し出すように要求したり、人に頭を下げさせるようなことがあってはなりません。
苦しむ人の苦しみに共感し、ともに立ち上がり、浄土往生の身に救われるのが浄土真宗です。
苦しむ人の苦しみに気がつかず、それどころか弱みにつけこむことで更に苦しめ、ただ今の救いを遠くにしてしまうのは、浄土真宗ではありません。
また、浄土真宗の言葉を使って、自分の願いを叶える手段にするのも、大間違いです。
浄土真宗といっても名ばかりの団体、名ばかりの布教使にならないようによくよく自戒しなければなりません。
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皆友 * - * 23:56 * comments(2) * trackbacks(0) * - -

いつどこで苦難にあうも なんのその

私は、建設会社に勤めています。
今から13年前になりますが、古い平屋アパートの解体工事がありました。
その当時でも見るからに古びたぼろい建物でした。
解体前で、どの部屋も中の家財は、撤去処分されていました。
その中のある部屋の畳を外に出すという作業をすることになりました。
4畳ほどで窓もない、それはそれは暗い部屋でした。
一日中、日がささないようなところです。
いかにも貧乏な人が暮らしていたのだろうという雰囲気でした。

しかし、壁に習字半紙2枚だけが、なぜか貼り残されていました。
そこに墨で書かれていた歌を見てびっくりしました。

「いつどこで 苦難にあうも なんのその 我に六字の 護りありせば」
「聞いたこと 覚えたことも みな忘れ 残るひとつは 南無阿弥陀仏」


一緒に畳を運びだしていた同僚がいたので、その二首の歌をじっくり味わっていることはできませんでしたが、私の心は、かなりドキドキしていました。

こんな環境の悪い部屋で生活していた人が、自分で詠まれたのか?
阿弥陀さまの救いを喜ばれていたのなら、すごいことだ。
だとしたら、すごく泣けてくる話、感動する話だ。
それとも、どこかの妙好人の歌を掲げて生きる明かりにしていたのだろうか。
と、あれこれ考えながらも、心で繰り返し覚えました。

後日、書道の上手な方に色紙に書いてもらい自宅に今でも掲示してあります。

阿弥陀如来さまの大慈悲心は、苦しみ悩む者にこそ憐れんでくださるというのは本当だと思わされた出来事でした。

いつどこで 苦難にあうも なんのその 我に六字の 護りありせば
聞いたこと 覚えたことも みな忘れ 残るひとつは 南無阿弥陀仏
皆友 * - * 23:56 * comments(7) * trackbacks(0) * - -
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