<< November 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 阿弥陀仏の大悲心 | main | 2010-4-21の安心問答より >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * - * - -

2月の「安心問答」を読ませていただきました

最近は仕事や雑事に時間をついやし、法に向かう時間が少なかったので、今日は、今月(2月)の「安心問答」を読ませていただきました。なるほどと思った部分を抜き出してみました。
「安心問答」は、すばらしいと思います。

2/1

阿弥陀仏の本願は、救われていることを信じさせるという本願ではなく、ただ今救うという本願です。

阿弥陀仏は現に働いておられます。

2/2

ただ今浄土往生定まる身に救っていただけるのは、阿弥陀仏の本願以外にありません。

信じられるかどうかというより、他にないという説明になります。

私が間違いないというから間違いないのではなく、阿弥陀仏の本願には間違いがありません。どうか、弥陀の本願を聞いて、ただ今救われて下さい。私に確信をあたえるのが阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏を与えて下さるのが阿弥陀仏です。


2/3
阿弥陀仏の方から、生死の海に沈んでいる私にむかって、「ただ今救うぞ」と先手で呼びかけて弥陀の大願の船に乗せて下されるのです。

2/10
何を大いに恥ずべきといわれるかといえば、阿弥陀仏は兆載永劫の間、私に変わって願行を行われ、釈尊は非常に長い過去から、衆生済度のために八千回世に出て、このような不思議の阿弥陀仏の誓願を私に知らせようとされてきたことを、今まで聞かなかったことを恥ずべきである。といわれています。
大変申し訳のないことでしたと、阿弥陀仏とお釈迦様のご苦労に慚愧の心を起こしなさいと言われているのは、救いが成就しているのに、それを聞かなかったことです。
当事者の問題となれば、遅速があるというよりは、救われるか救われないかということになります。

2/14
往生極楽の道は、孤独ではありません。上記のお軽同行の言葉にあるように「連れて行こうぞ 連れられましょぞ」と阿弥陀仏は常に働いておられます。往生は自分で抱える荷物ではないのです。往生は投げた投げたです。弥陀にまかせて、連れて行こうぞの仰せに、連れられましょうと、ただ今すくわれてください。
阿弥陀仏
はあきらめられません。

2/15

阿弥陀仏とはどんなお方かをよく知ることは大事ですが、知るという内容はもっと勉強しなければ知ることが出来ないというような複雑なことではありません。

私を助けるために願を建てられた阿弥陀仏がおられ、私を助けようと現在働いておられるということです。

2/16

本願を聞きなさいとは、別の言葉で言えば疑いをすてよ、計らいをすてよということです。雪は空から降るもので、どこかの雪山の頂上にじっとしている ものではありません。その雪のように、音もなく私に降りかかってきて下されるのが願力です。自分の手元でなんとか聞こう、耳を澄ますのは自分の心の声を聞 いているのです。

本願は実際に働いておられます、家の中をどれだけ探しても雪が降っているのがわかりませんが、外をみれば明らかなことです。

私の心の中から出てくる信心でも、本願でもありません。阿弥陀仏の方からよびかけられる本願の呼び声を聞いて下さい。

2/17

他力の信心とは、空の向こうのその先の、遙か遠い世界のことではありません。想像も及ばないと言われると、そのように思うかも知れませんが、阿弥陀仏の方から回向してくだされるのです。
雨は私が降られようと思って向かっていくものではなく、私に向かって降ってくるものです。高いビルの屋上にいても、地面にいても、平等に私に降ってきます。遠く遠くにあるのではなく、私へ私へと向かって来て下されるのが南無阿弥陀仏です。
皆友 * - * 15:39 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

スポンサーサイト

スポンサードリンク * - * 15:39 * - * - * - -

コメント

コメントする









トラックバック

このページの先頭へ