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『親鸞聖人の教え・問答集』

 
今日から『親鸞聖人の教え・問答集』を少しずつですが読んでいくことにしました。
http://p.tl/WFqG
たいへん読みやすい文体で書かれているのでいいです。
音読したものを録音して耳で聴くのもいいと思います。
皆友 * - * 21:47 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

2010-4-21の安心問答より

2010-4-21の安心問答は、たいへんわかりやすいと思います。 http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100421
皆友 * - * 12:09 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

2月の「安心問答」を読ませていただきました

最近は仕事や雑事に時間をついやし、法に向かう時間が少なかったので、今日は、今月(2月)の「安心問答」を読ませていただきました。なるほどと思った部分を抜き出してみました。
「安心問答」は、すばらしいと思います。

2/1

阿弥陀仏の本願は、救われていることを信じさせるという本願ではなく、ただ今救うという本願です。

阿弥陀仏は現に働いておられます。

2/2

ただ今浄土往生定まる身に救っていただけるのは、阿弥陀仏の本願以外にありません。

信じられるかどうかというより、他にないという説明になります。

私が間違いないというから間違いないのではなく、阿弥陀仏の本願には間違いがありません。どうか、弥陀の本願を聞いて、ただ今救われて下さい。私に確信をあたえるのが阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏を与えて下さるのが阿弥陀仏です。


2/3
阿弥陀仏の方から、生死の海に沈んでいる私にむかって、「ただ今救うぞ」と先手で呼びかけて弥陀の大願の船に乗せて下されるのです。

2/10
何を大いに恥ずべきといわれるかといえば、阿弥陀仏は兆載永劫の間、私に変わって願行を行われ、釈尊は非常に長い過去から、衆生済度のために八千回世に出て、このような不思議の阿弥陀仏の誓願を私に知らせようとされてきたことを、今まで聞かなかったことを恥ずべきである。といわれています。
大変申し訳のないことでしたと、阿弥陀仏とお釈迦様のご苦労に慚愧の心を起こしなさいと言われているのは、救いが成就しているのに、それを聞かなかったことです。
当事者の問題となれば、遅速があるというよりは、救われるか救われないかということになります。

2/14
往生極楽の道は、孤独ではありません。上記のお軽同行の言葉にあるように「連れて行こうぞ 連れられましょぞ」と阿弥陀仏は常に働いておられます。往生は自分で抱える荷物ではないのです。往生は投げた投げたです。弥陀にまかせて、連れて行こうぞの仰せに、連れられましょうと、ただ今すくわれてください。
阿弥陀仏
はあきらめられません。

2/15

阿弥陀仏とはどんなお方かをよく知ることは大事ですが、知るという内容はもっと勉強しなければ知ることが出来ないというような複雑なことではありません。

私を助けるために願を建てられた阿弥陀仏がおられ、私を助けようと現在働いておられるということです。

2/16

本願を聞きなさいとは、別の言葉で言えば疑いをすてよ、計らいをすてよということです。雪は空から降るもので、どこかの雪山の頂上にじっとしている ものではありません。その雪のように、音もなく私に降りかかってきて下されるのが願力です。自分の手元でなんとか聞こう、耳を澄ますのは自分の心の声を聞 いているのです。

本願は実際に働いておられます、家の中をどれだけ探しても雪が降っているのがわかりませんが、外をみれば明らかなことです。

私の心の中から出てくる信心でも、本願でもありません。阿弥陀仏の方からよびかけられる本願の呼び声を聞いて下さい。

2/17

他力の信心とは、空の向こうのその先の、遙か遠い世界のことではありません。想像も及ばないと言われると、そのように思うかも知れませんが、阿弥陀仏の方から回向してくだされるのです。
雨は私が降られようと思って向かっていくものではなく、私に向かって降ってくるものです。高いビルの屋上にいても、地面にいても、平等に私に降ってきます。遠く遠くにあるのではなく、私へ私へと向かって来て下されるのが南無阿弥陀仏です。
皆友 * - * 15:39 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

阿弥陀仏の大悲心

先週は、私の母も阿弥陀仏の本願について、安心問答の宮田さんほか皆様から直接聞くご縁がありましたのでありがたいことでした。

多くの方の励ましにより、南無阿弥陀仏の話を聞こうという気持ちを起こさせていただいておりますこと、この場を借りましてお礼申しあげます。

皆様が私のことを思って一生懸命、話してくださると阿弥陀さまの大悲心を感じ、思わず涙することもあります。

阿弥陀仏の本願といいましても、人から人、心から心へ伝わるのだと思います。

「なんとか阿弥陀仏の本願に救われていただきたい、ともに弥陀の浄土に参らせていただきたい」

このような心ですべての人に接したいと思うのです。

阿弥陀仏の大悲心は、すべてのひとを等しくへだてなく救い給う広大なものとお聞きします。

親鸞聖人や蓮如上人がいかにすばらしいお方でも、既にお亡くなりになっておられますので、現在の私たちに直接話してくださることはできません。

ならば、阿弥陀仏のご本願を知らされた私は、自分のできる精一杯、「目の前にいる人」に伝えていこうと思っております。

阿弥陀仏の大悲心を思い起こし、自分だけの幸せを求めている愚かさを反省したいと思います。

皆友 * - * 05:08 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

先手の本願だから、弥陀も捨てよ・・・

「阿弥陀仏を念じてはいるのですが、相変わらず、なかなか救われません。申し訳ないことです。」と言うと、次のように答えてくださる方がありました。

あなたが救われようとしているのは、あなたが作り上げた南無阿弥陀仏だから救われないのです。
方向が違うとも言えます。
今、思い描いている、阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を思い切って、破壊して粉々にして下さい。
その時、本物の南無阿弥陀仏が受け取れます。
自分の想像も及ばない、自分などが信じることなど、とても出来るものではなかったと信知させられます。
今、阿弥陀仏の本願に救われますから。

あなたは、阿弥陀仏に負けていないのです。
愚かでなく、お利口さんなのです。
小細工が止まないのです。
自分の作った阿弥陀仏の頭の上から、どうして助けてくれないのと文句言っているような感じです。
孫悟空がお釈迦様の手のひらで、ただをこねて、暴れているような。
ただうちまかせたら、それだけでいいのに。
何もいらないのに。
皆友 * - * 00:57 * comments(1) * trackbacks(0) * - -

阿弥陀仏の本願には間違いがありません

安心問答の宮田さんが、御文章2帖目13通・御袖をよく話してくださいますので、拝読しました。
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当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。
さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもつてあるべからざるものなり。
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浅井成海監修『蓮如の手紙 お文・ご文章現代語訳』(国会刊行会)の訳を引用します。
 わが浄土真宗の信心の内容を詳しく知りたいと思う人は、ことさら知恵や学問はいりません。また、男性、女性、地位の高い、低いの区別もありません。
 ただ、
わが身は罪の深い浅ましい者であると思い知り、こんな者までもおたすけくださる仏は阿弥陀如来だけである知って、自分のはからいを少しもまじえずに、ひとすじにこの阿弥陀仏のお袖にぴったりとおすがりする思いをなし、阿弥陀如来の仰せにおまかせすればよいのです。そうすれば、阿弥陀如来は深くお喜びになって、そのお体から八万四千の大いなる光明を放たれ、光明のなかにその人をおさめ入れておいてくださいます。
 そういうわけで、このことをまさしく『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と説かれているのだと心得てください。
 この阿弥陀さまの光明のご縁に遇わせていただかなければ、永遠の過去からの無知や、さとりの妨げとなる悪業という恐ろしい病いが治ることは、ありうるはずもありません。

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「かかる機までも助けたまえる仏は、阿弥陀如来ばかりなり」と蓮如上人が言われている通り、
この世に、私を浄土往生させて下される仏は、阿弥陀如来の他にはないということなのですね。
「どうか、弥陀の本願を聞いて、ただ今救われて下さい。」と仰っているのですね。

私たち一人一人に阿弥陀仏はよりそって、なんとか助けようと働きかけておられるのですね。
横で見ているから自分でなんとかしなさいということではなく、お前に代わってかならず浄土へ連れて行くぞとのよびかけが、南無阿弥陀仏であり、一人一人に阿弥陀仏が喜んで
用意をしておられるのですね。
皆友 * - * 23:57 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

阿弥陀如来の大悲心を思うと・・・

阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏について多くの方とお話したいなぁと思っております。
南無阿弥陀仏を常に喜んでおられる方には、惜しみなく、どんどん私や未信の方に声をかけていただきたいなぁと思います。
独り喜ばれるのももちろん素晴らしいのですが、阿弥陀さまの広大な御心のまま精一杯、教人信に努めていただきたいと思います。
まだ救いにあっておられない方々とも、ぜひとも弥陀の浄土へ行かせていただきたいですから、何でも遠慮なくお話できる機会が増えればありがたいと思います。
お話していく中で、いろいろと感ずるものがあると思います。
電話やネット、また直接お話する機会が増えればいいなと思っています。また、自分からも増やしていきたいところです。
『御文章』でいうところの「信心の沙汰」をする機会、場が増えることを願っています。

自利利他に生きたいものですね。
「他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」
のお言葉のように生きたいものですね。



皆友 * - * 23:56 * comments(2) * trackbacks(0) * - -

喜びを共有したい

当ブログのリンク先は、すばらしいものばかりだと思います。

毎日ありがたく弥陀の本願まことであることを聞かせてもらっております。

また、最近の本願寺の「勧学」(かんがく)である人(あった人)には、なかなかの方がいらっしゃったことを昨年知りました。梯實圓(かけはし じつえん)さん、加茂 仰順(かも ごうじゅん)さん、深川 倫雄(ふかがわ りんゆう)さんなどです。

著作、法話CD、インターネットで紹介されている文章などを通して弥陀の本願を聞かせてもらっております。

あいがたき弥陀の誓願、聞きがたき阿弥陀さまの本願ではありますが、今、上記の方々の著作等にかぎらず、法を知る・学ぶに充分すぎるぐらいのものがあふれています。

本当にめぐまれている状況だと思います。


あくまで私の目的は、もの知りになることではなく、一日も早く阿弥陀さまに救われることです。

ただ今、阿弥陀仏の本願によって生死流転から救われて弥陀の浄土へ往生が定まることが目的です。

その一方で、ありがたい尊き弥陀の誓願を聞かせてもらっている身の幸をひとりじめするのではなく、家族や縁のあった方と喜びを共有したいと思っています。

ネットが苦手な方も多いと思います。

身近な人に「ただ今救いたまう阿弥陀如来のご本願」を伝えていきたいと思います。


よくお勧めしているのは、「安心問答」を繰り返し読むことです。

パソコンがなくて読めない人には、読み聞かせてあげるのもいいと思います。(もちろん、自分のためにもなるのですが。)

蓮如上人の『御文章』が、当時の人にとってすばらしいものであったように、平成の今を生きている私たちには、「安心問答」がそれぐらいの役割を果たしていると思います。

安心問答」を書かれている宮田さんから直接聴かれれば、なおいいと思います。


「人生は苦なり」と言われますが、確かにもし、もう一回同じことをやりなおさなければならないとなるとたいへんだと思います。

苦しみ悩みの凡夫である私の痛みを共にする心をお持ちの大慈大悲の阿弥陀仏が現実として働いておられますから、ただ今救われます。

皆友 * - * 23:14 * comments(1) * trackbacks(0) * - -

法を仰いでいくことが大切

 法を仰いでいくことが大切とよくお聞きします。
「法」とは、阿弥陀仏の本願です。
今日の最後の学徒(仮)さんのブログの記事が素晴らしかったので、法を仰がせていただくのに繰り返し読ませてもらいました。
一部抜粋させていただきます。
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阿弥陀如来はずっとお喚びづめです。
先送りにすること、弥陀にはありません。
私は受け心が足りない、と言われますが、受け心を作れとは言われません。
受け心のないお前だから、受け心は私が作ろうと兆載永劫の御苦労になったのです。
私が今救われずにおかないのではなく、
阿弥陀仏が今、救わずにはおかないのです。
ただ、その弥陀の願いに信順するのみです。

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次に紹介するのは、
hiromiさんのブログのコメント欄にあった言葉ですが、なるほどと思ったので、皆さまも読んでみてください。
私が阿弥陀様を想って追いかけてのことではなかったのです。どこどこまでも、追いかけて捕まえて離してくださらない、私が忘れているときでも、ひたすら間断なく私を想って願ってくだされているのは阿弥陀様のほうだったのですね…。
皆友 * - * 12:57 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

御文章のすすめ 

「 安心問答」の宮田さんや「21世紀の浄土真宗を考える会」の近藤さんが、御文章の拝読を勧めてくださいます。
御文章のすゝめ
御文章のすゝめ  その2
投稿文:新しい御文章(仮称)

15年ほど前ですが、「世界の光親鸞聖人」ビデオの頒布のため、あるお宅を訪問した際にお会いした方で、弥陀の本願に救われたことを喜んでおられる方がありました。
その方も「凡夫往生の鏡」と言われる御文章を読むことを勧められたことをよく覚えています。

しかし申し訳ないことですが、昔の言葉で読みにくいという感じを持っていました。
今日の
hiromiさんのブログ
で紹介されていた本を購入して読んでみようと思います。
浅井成海監修『蓮如の手紙 お文・ご文章現代語訳』(国会刊行会)

紹介、ありがとうございます。
「法」を仰ぐによい書物は、すぐに紐解ける(ひもとける)ようにしておきたいと思います。
(「法」とは、「阿弥陀仏の本願」です。)
皆友 * - * 23:54 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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